海賊と呼ばれた男 モデル 出光佐三

一人の日本人が、世界を変えた

全国の書店員が「最も売りたい本」を投票で選ぶ「2013年本屋大賞」である「海賊と呼ばれた男」(講談社)にはモデルがいる。

その男の名は出光佐三である。

とてつもない男だ。

ちなみに著書は受賞前からすでに41万部を突破する売れ行きで、受賞でさらに32万部の増刷が決まっている(そしてさらに増刷され、100万部到達した)

出光佐三
あの出光興産の創業者である。



出光佐三(いでみつ・さぞう)略歴
1885年~1981年(明治18年~昭和56年)出光興産創業者。福岡県宗像郡赤間町生まれ。神戸高商卒。神戸の貿易商酒井商会を経て、明治44年、出光商会創業。
昭和15年出光興産㈱に改組して社長に就任。昭和41年会長。同年出光美術館開設。
95歳で没。著書に「人間尊重50年」「働く人の資本主義」「永遠の日本」他。


百田尚樹 待望の最新刊『海賊とよばれた男』いよいよ発売!




出光佐三のエピソード

明治44年、25歳で機械油を扱う「出光商会」を立ち上げる

戦時中は、朝鮮、満州から華北、華中、華南、南方地方地域まで、手広く営業活動を行っていたが、敗戦でその拠点の全てを失った。投じた資金も無に帰した。残ったのは250万円ほどの借金。

一方、内地にあった営業施設は、政府の統制機関に接収されたままで、出光の自由にはならなかった。

つまり、この時の出光は、仕事の口を全て奪われたのだ。

敗戦とともに海外基盤が全て吹き飛びそこから800人もの社員が引き揚げてくる。殆ど仕事のない状態では、その人たちに給与を払っていくことは出来るわけがない。

「大量解雇はやもえない」
という意見が幹部の中で飛び交ったのは当然であった。

しかし黙って重役たちの話を聞いていた出光佐三は目を開き言葉を発する。

「私は、君らの意見に賛成できない。馘首(かくしゅ)してはならないと思う。特に海外から引き揚げてくる者を整理しようとする考えには、反対だ」

「彼らがどんな気持ちで、危険な外地へ出て行ったのかを、今一度思い起してほしい。会社を信用すればこそだろう。万が一の時には、会社が骨を拾ってくれるという気持ちがあったから、危険を顧みなかったのだ。文句を言わず、よく行ってくれたと私は今でも、彼らに感謝している。そういう人達を首になど、私にはできん」

しかし「首を切らなければ、共倒れですよ」となお粘る幹部もいたが、佐三は一歩も引かない。



「社員はみんな家族のようなものだ。きみらは、食い物が足らんからと、家族の誰かを追い出したり、飯をやらないようにしようと言うのか。そんな薄情なことができるのか。事業は飛び借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。仕事がないなら探せばいい。仕事をつくればいい。それをせずに、安易に仲間の数を減らして、残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。もしその努力をみんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、その時は、みんな一緒に乞食にならおうじゃないか」

佐三の思いはただ一つ。内地と併せて1000人になる社員とその家族を、荒波の中に放り出すことが出来ないということであった。どんなことをしてでも、石にかじりついてでも、みんなを食べさせていかねばならぬ、この一念に凝り固まっていたのであった。





そして出光佐三の名をさらに世に知らしめる出来事が起きる。

欧米の石油メジャーの独占的な支配に反発し、「メジャー何するものぞ」という反骨精神を強く持っていた。

発端は大産油国のイランが、イギリスに支配されていた石油を国有化すると宣言したことだ。

これを認めようとしないイギリスは、
「イランから石油を買う国のタンカーは拿捕する」と脅した。

出光佐三はこれに屈せず、出光最大のタンカー「日章丸二世」を極秘に派遣した。

船はイギリス海軍の監視をかいくぐり、ホルムズ海峡を往復。

ガソリンと軽油を運ぶことに成功した。

ところがイギリス側は積み荷の所有権を主張して提訴してきたのだ。

東京地裁の法廷に立つ出光佐三は言った。

「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として、府仰天地に愧(は)じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします」

結果は全面勝訴となり、敗戦後の占領から脱したばかりの日本人に、大きな勇気を与えたのだ。

出光佐三は言う

「事業は金儲けのためにやるのではない。人の役に立つためにやるんだ。そして仕事を通じて人を育てるのが会社の使命なんだ」